マリー・アントワネットの夫と息子や娘について!子孫は?母親もリサーチ!

 

こんにちはチャチャチャです!

連日猛暑続きですが熱中症対策はどうされていますか?

我が家も梅ジュースを作り置きしたり飲む点滴と言われる

甘酒を作ったり、トマト料理をよく作ったりしていますね。

もちろん、ひんやりシーツなども使用しながらです。

先日は土用丑の日でした。

次は8月1日ですね!

なんといってもうなぎですね!

うなぎは最近は中国産もかなり増えてきましたが、

やはり国産のうなぎは高いのですが、食べたいですね!

今回は、華やかな王室の人生から、フランス革命により、

人生が一転して、最後は悲惨な運命を背負ってしまった

一人の女性マリー・アントワネットについて記載したいと思います。

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マリー・アントワネット夫と息子と娘!

マリー・アントワネットは政略結婚によりフランスに嫁ぐことになります。

夫の名前は、ルイ16世となるルイ=オーギュストです。

息子はルイ・シャルルで、ルイ17世です。

しかし父親と母親も亡くなり、衛生環境が最悪な独房の中で

お亡くなりになります。

10歳でした。

娘はマリー・テレーズ。

フランス革命が始まったのが、彼女が10歳の頃。

長い間牢獄に閉じ込められていたものの、

母の母国であるオーストラリアに戻る事に成功します。

しかし、その後は結婚をするも子供には恵まれず、

亡命生活が長きに渡り続きます。

最終的には現在のイタリアのゴーリッツに落ち着き、

72歳の生涯を終えます。

子孫は?

マリー・アントワネットはルイ16世と結婚するのですが、

7年後に子供をようやく授かります。

4人の子供のうち2人は病気で亡くなります。

息子はルイ・シャルル  娘はマリー・テレーズです。

そしてルイ・シャルルは獄中でお亡くなりになります。

唯一残ったのが、マリー・テレーズです。

マリー・テレーズは、その後、ルイ・アントワーヌと結婚をします。

一度だけ授かった子は流産してしまい、結局その後は、

子供が出来ませんでした。

結局子孫は途絶えてしまった事が結論です。

家系図で考えると、

マリー・アントワネットはルイ16世の間に4人の子供

唯一結婚したのが、マリー・テレーズ。その結婚相手は、

ルイ・アントワーヌです。

マリー・アントワネットから見た家系図は子供の代で終わり

という事になります。

母親と父親について!

さて次に母親についてご紹介しましょう。

母親はマリア・テレジアです。

世界史を専攻していた人なら超有名人ですね!

オーストリアの女帝で、剛腕政治家でした。

16人の子供を産んだ事でも有名です。

今の時代では考えられないほど、子供を出産されている事になります!

まさに肝っ玉お母さんと言えるでしょう!

そんなマリア・テレジアは非常に強くてたくましい印象を受けるのですが、

若い頃は美人だったそうです!

一方父親は結構マイナーな方で、知っている人もあまりいないかと思います。

そのかたこそが、フランツ・シュテファンというかたで、

ロートリンゲン出身です。

実は政略結婚では無く、恋愛結婚だったそうです。

ますおさん状態での結婚となります。

かたやハプスブルク家の王妃、かたや小国ロートリンゲンの次男

という事でまさしく格差婚、オーストリアの国民も非常に驚いたようです。

しかし、フランツ・シュテファンは軍事や政治経済はまるで駄目で、

妻のマリア・テレジアにまかせっきりで、

自分は娯楽などの快楽に走っていたそうです。

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生い立ちと生涯!

マリー・アントワネットの誕生日は、1755年11月2日生まれです。

マリア・テレジアの5男11女の11女で、末娘として生まれます。

幼少期の彼女は、真っ白く透き通る肌と言われる容姿だったそうですよ。

今のように写真や動画が無いので、そこらへんの判別は難しいですが(笑)

そして、

優雅な立ち居振る舞いが最大のマリー・アントワネットだったようです!

幼少期は両親に愛されたようで、わずか4歳で社交界デビューを果たした

というエピソードもあります。

そして、

自由気ままな性格に育ってしまったマリーアントワネットは、

勉強をよくサボっていたようです。

マリー・アントワネットは学力はそれほどでも無かったのですが、

踊りをとても得意にしていたようです。

実は他にもこんな面白いエピソードがあります。

6歳のモーツアルト同い年のアントワネットにプロポーズをしたんだとか!

しかし、この事はもちろん実現せず、

マリー・アントワネットはフランス王室へと嫁ぐ事になり、

誰もが知っているあの激動の人生を経験するのです。

その激動の人生の序章ともなったのが、父親が他界したことです。

マリー・アントワネットが10歳の時に父親が無くなり、

政略結婚の為、14歳の若さでまだ会った事のない夫に会いに行くため、

オーストラリアを出て、フランスに嫁ぐことになります。

当時は殆どが政略結婚の為、見合いの肖像画が唯一の相手を知る

ツールだったそうで、恋愛での結婚がほとんどない時代でした。

現代だと、中学2年生くらいなので、そう考えると今と昔とでは

かなりのギャップを感じられずにはいられません!

そして、ついに1770年にのちのルイ16世となる

ルイ=オーギュストと結婚します。

しかしその4年後の1774年 ルイ15世がお亡くなりになります。

つまり、結婚してから4年で国王と王妃になってしまうのです。

しかし、王妃になってことで、さらに自由奔放さはエスカレート

していき、毎日のように舞踏会を開催します。

さらにその浪費ぶりはすごく、衣装代も決められていた予算をはるかに

超えていた額だったようですよ!

そんな毎日の浪費生活が、民衆の間でも話題になり、

赤字夫人とも言われたそうです。

そして民衆の怒りを買い、フランス革命が1789年に勃発します。

結局、

夫はギロチンにかけられ、最愛の息子とも引き離されたマリー・アントワネットは、

タンプル塔から人生最期の地、コンシェルジュリーの牢獄に移されるのです。

そしてそこでの呼び名は、『280番目の囚人』として記録されます。

独房にいられていたのですが、カーネーション事件により一旦脱出をはかり、

もう少しで成功とおもいきや結局、裏切りにあい失敗に終わります。

そしてついに裁判にかけられ、判決を言い渡されます。

罪状は「国家予算を浪費した罪」により、ギロチンの判決を受けるのです。

そして人生最期の日に、

ほとんど食事も喉に通らなかった程やつれてしまったマリー・アントワネットですが、

体力気力が無い中、ブイヨン・スープを食べます。

マリー・アントワネット最期の食事となります。

そして荷馬車では無く、粗末な荷車に載せられ、革命広場まで連れていかれます。

革命広場までの観衆の目にさらされ暴言をはかれたマリー・アントワネットは

これから自分の命が絶たれようとする彼女にとって想像に耐えがたいです。

そして、ギロチンによって、マリー・アントワネットの幕が下りる事とになります。

性格についてリサーチ!

性格は自由奔放だったようです。

これは父親譲りだったとも言われています。

母親とは正反対ですから!

遊ぶことやお洒落が好きで、快楽主義的でした。

しかし、あまりに度が行き過ぎて、さらにその目立った性格が、

生活に苦しむフランスの国民にとっては怒りを買ってしまったのでしょう!

もう少し、控えめで質素な性格を持ち合わせていれば、

最期は悲惨な人生を送らずに、別の人生を味わっていたかと思います。

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いかがでしたか?

マリー・アントワネットは国家財政を傾ける程の浪費家と言われいたのですが、

実は予算内で生活をしていたという逸話もあります。

お洒落を楽しむことが好きなごく普通の女性だったのかも知れませんね!

ただ前述した通り、やる事なす事が派手すぎたため、

フランス国民にとっては洒落にならなかったのでしょう!

それにしても、これだけ人生の中で天国から地獄を味わう人も

世界史の中でもなかなかいないと思います。

こういったマリー・アントワネットの失敗を日々の社会生活にも

教訓として生かしていきたいと思います。

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